赤穂浪士となたまめの関係

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健康茶や生薬、民間薬として古くから重用されてきた、なたまめ。
年末になると毎年のようにテレビで放映される忠臣蔵でも討ち入り前夜に赤穂浪士たちがなたまめを食べていたという言い伝えが残っています。
ここで赤穂浪士となたまめの関係について、詳しく説明しましょう。

赤穂浪士たちが食べた、なたまめのエピソード

忠臣蔵の物語は元禄時代、現在の兵庫県赤穂市にあった赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城・松の廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかり、殿中において刀傷沙汰を起こしたかどで浅野家は断絶、赤穂藩が取り潰されたことがきっかけでおきた事件をベースに描かれています。

吉良上野介は内匠頭に今でいう嫌がらせやいじめを行っていた、内匠頭に賄賂を要求していたとされたにも関わらず、吉良川に対するお咎めはなし。
内匠頭の部下であった赤穂浪士たちは旧主の忠義を誓って、吉良邸への討ち入りを実行したのです。

縁起物として食べられたなたまめ

47人いたとされる赤穂浪士の中でも有名なのが堀部安兵衛です。彼のいとこである人物が残した「浅野内匠頭殿御家士敵一件・佐藤一敬覚書」という文書に赤穂浪士たちが討ち入り前夜に集まった安兵衛の家宅において、なたまめを食した様子が描かれています。

堀部安兵衛は最年長だった赤穂浪士のひとり、堀部弥兵衛の婿養子。その堀部弥兵衛の妻が用意した、
なたまめを切ったものを皆で食べたのだとか。どのように調理されていたかまでは分かりませんが、栄養たっぷりのなたまめを食べて、英気を養ったのではないでしょうか。

当時、赤穂藩はなたまめの産地である薩摩藩と深い縁があったと言われています。赤穂藩の家老であった大石内蔵介は薩摩藩の家老であった種子島久基と交流がありました。現在の兵庫県に位置する赤穂藩と薩摩藩は決して近くはありませんから、なんらかの深いつながりがあってなたまめが用意されたのでしょう。

篤姫の時代にも縁起物として重用されてきたなたまめ。赤穂浪士たちが、その後義士伝として名高い忠臣蔵の赤穂浪士たちも討ち入りの成功を願って、なたまめを食べた…。
みなさんも、そんな風に歴史の思いを馳せながらなたまめ茶を飲んでみてはいかがでしょういか。

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